5.聞こえる人の世界と聞こえにくい人の世界

難聴による問題は、偏に難聴児・者だけの固有の問題として生じるわけではない。多くの問題が、聞こえる人の社会に難聴児者が生活しなければならないことから生じてくる。聞こえる人には聞こえにくい人のことが理解しにくいし、聞こえにくい人には聞こえる人のことが理解しにくい。

例えば聞こえる子供は、外で車が止まり、靴音が聞こえ、玄関のドアが開くだけで父親の帰宅を察知する。「ただいま」と言う声が聞こえるまでに、すでになにがしかの情報を得、気持をそれに向けることができるのである。一方難聴児にとっては、父親は突然目の前に表れることになる。ある父親が、難聴の子供がテレビに夢中で「おかえりなさい」を言わないと訴えたが、難聴児にとっては、突然のことがあまりに多すぎ、そのために気持の準備が整わず、聞こえる人の行動の流れとずれるのである。

赤ちゃんにとっても同じである。難聴児にしてみれば突然母親がいなくなったり、表れたりするのである。聞こえる赤ちゃんであれば、たとえ視野の外に母親がいたとしても、台所で働く音、トイレのドアがしまる音で母親がどこにいるか察知することができる 。また場所を移動する音でいち早く母親の動きに気づくこともできる。幼い難聴児の中には、非常に不安が強く、片時も母親から離れない子がいるのも、よく理解できることである。

聞こえる子供達は、直接に自分に向けられて話されなくとも、他者の会話から実に多くの情報を取り入れている。両親の会話から、明日どこにいくのか、だれが来るのか等様々な情報をそれとなく聞きかじっている。しかし難聴の子供は、自分に直接向けられた情報しかとることができない。とりたてて話題にしなくとも皆は了解していることを、難聴児だけが知らなかったということばよくある。

また難聴の子供は、とても乱暴に思われることがある。物の扱い、ドアの開閉、人への触れ方などにそれが表れる。聞こえる人なら音で調整するはずのところが、聞こえにくいためにそれが難しくなるからである。呼ばれても気づきにくい難聴児は、健聴児から肩をたたいて合図されることがよくある。だから難聴児も同じように健聴児の肩をたたいて呼んでいるつもりなのだが、それに慣れていない健聴児は、ちょっと強かったりすると本気で叩かれたたような気になる。そんなちょっとした食い違いから、多くのトラブルが生じるのである。難聴による問題は、難聴児・者だけが努力し解決するのではなく、聞こえる人と聞こえにくい人が、互いの立場を理解し、相互に努力する必要がある。難聴児が生まれた家庭では、それまで知らず知らずにとってきた聴覚に依存した生活スタイルを変え、難聴児にも分かりやすいように、視覚的に捉えられるような生活をしていくことが大切である。“聞こえること”と“聞こえにくいこと’’について相互理解が進めば、難聴児・者の孤立感や疎外感はずっと軽減されるであろう。

投稿日:1997年3月1日 更新日:

みんぐる

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